高齢妊娠をきっかけに見つけた、新しい生き方と働き方

女性活躍推進が謳われ始めて久しく、働く女性はますます増え、晩婚化・晩産化も進む現代。23区内では待機児童問題も相まって、私が1人目を出産した2012年にはまだまだ珍しかった、育休から数ヶ月での早期復帰(当時の奮闘ぶりは以前こんなふうにまとめていただきました

DeNAの母がつかんだ、時短"一流の作法" | ワーキングマザーサバイバル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

)も、保活激戦区の都内ではもはや当たり前になり、育休1年取れる人なんて一体どれほどいるの?というような状況です。

タフな働く女性が増えた一方で、男性の育休も社会問題に。働き方改革にはまだまだ程遠いのが実情とは感じられますが、元号も変わった令和元年、改めて、もう少しどう生きてどう働くかを考え直してもいいのでは、と思うような出来事が私自身にありました。

 
それは、30代後半の高齢妊娠(正確には第二子の30代後半なので、高齢出産とは言わないのですが、体感としては“高齢”でした)。
1人目と7歳離れての妊娠でした。2人目はもう無理かなぁと諦めかけた矢先だったので喜びは大きかったものの、束の間のうちにひどい悪阻に襲われました。
 

辛い妊娠悪阻に、生き延びるのでせいいっぱいの日々

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空腹を感じると吐き気と嘔吐。食べたら食べたで血糖値が上がるのかまた吐き気がして、1時間ぐらいは横になったまま動けない。お風呂に入って温まると吐き、夜中も吐き気で眠れない。スマホを見てもPCを見ても気持ち悪い。長時間の会議も座っていられない。土日はほぼベッドに寝たきり。
24時間絶え間なく続く吐き気、嘔吐に、「死んだほうがマシだ…」と本気で考えるほどでした。
 
しかも、折しも仕事は、大型プロジェクトのローンチ直前期。会社中、誰もがピリピリと必死で奔走する中、体力が半減以下の私は、もはや業務に使える時間も体力も、能力も削られてしまって、つわりピーク時は本当に使い物にならず、迷惑ばかりかけていました。
 
しかも、迷惑をかけてしまうことに、先回りして「これはできない」と調整に回る気力にも欠け、自分宛のslackのメッセージに怯える日々。slackアプリの右上に付くプッシュ通知の赤丸を見るのも嫌でした。
もちろん、妊娠の事実と捌ける業務量に制限が出てしまうことは、上長、チームに伝えていたものの、たぶん、自分で予想していたよりも、キャパが下がっていることに対応しきれていなかったのだと思います。
 
あまりの辛さに、かかりつけの産婦人科医に休職したい旨を相談したものの、「悪阻は病気ではないので、休職を医師として勧めることはできない」といわれ、絶望的な気持ちに。
なんとか少しでも軽減する方法はないものかと、鍼灸、妊婦専門のマッサージ、漢方医など代替医療も含めたクリニック&サロンラリー。貧血もあったので内科にも行き、結果そこで「妊娠悪阻と貧血、それにちょっとうつ状態だね。心療内科にも行ったほうがいい。休職の診断書を出しますよ」と言われ、ひとまず2週間の休職をすることになりました。おそらく妊娠うつでした。
 
さらには、食べられる物が極端に少なくなり、コンビニ弁当や出来合いの惣菜、にんにくの強い匂いのするものやべっとりと酸化した揚げ物とかは食べられないので、本当に食べるものに困りました。
最終的には、実家の母に上京してもらい、2週間、3食を作ってもらってやっとまともに食べれるように。味噌汁と新鮮な惣菜と、ごはんとおかず。
ただそれだけの普通の食卓がいかにかけがえないものかと身にしみて感じました。
 
クリニック&サロンラリーの結果、小半夏加茯苓湯という漢方が少しだけ効き、貧血対策には鉄剤の注射を打ってもらい(鉄剤の薬は吐いてしまって飲めませんでした)、さらに東洋医学では頭を冷やし(気逆と呼ばれる、赤ちゃんの熱が頭に上がってしまう状態だといわれた)、2週間の休職と、2週間の在宅勤務の後に、やっとなんとか出社ができるようになりました。
 
もう妊娠発覚からの数ヶ月は、本当に生きているだけで精一杯でした。
そして、どうしてこんなにひどいことになったのだろうと考えました。
 

健康をないがしろにした、仕事中心の生活スタイル

そもそも、この2年ほど、短期間で2度の転職をし、相当仕事に力点を置いた生き方をしていました。子どもも大きくなり、それほど病気をしなくなったのもあり、夜間保育の充実した保育園に子どもは預けきり。好き嫌いの多い息子は、夫が与えるラーメンや唐揚げ、餃子、焼き鳥など味の濃いものばかり好むので、少しずつ私の料理も、「とりあえず息子が食べたいものを食べればいいや」とそういった子どもが食べるものばかりに寄っていました。また、自分自身にきちんと食べさせる、みたいなところまで気が回らず、ともかく息子に食べさせなければ、ということでせいいっぱいでした。
 
頭は常に仕事でフル回転、24時間仕事のことばかり考えていました。
(よく妊娠できたものだとも思いますが)それらの生活はもう1つの新しい命を育てる上では非常に不適切だったのだなと。子どもの好む食べ物は、妊娠後の私は全く受け付けられず、仕事のことを考えると吐き気が込み上げてくる。命を育むには、あまりにも不健康だったのでしょう。
 
ベテラン助産師のブログを読む中でも、「悪阻がひどくなる人の性格・生活」のチェックリストにほとんど当てはまり、改めて、「こんなの全く人間が人間を1人創り出せるような生活じゃないわ」と思いました。
 
休職後の復帰後も、吐き気はかなり軽減したものの、ずっと体調は不安定で、午前中は身体がだるくて起きられなかったり、腰痛が辛かったり、夜もよく眠れず、何度も目が覚めて眠れなくなるし、夜中に足が攣ったり、食事後に極端な眠気に襲われて動けなかったり、妊婦健診では疲労で尿蛋白がで続けているし、…と次々起こるマイナートラブルの連続。
お腹が大きくになるにつれて、貧血は悪化し、坂道や階段が極端に辛くなり、歩くスピードは亀並み、通常12以上必要なヘモグロビン値は7.9に。「これはフラフラで倒れちゃうレベルですよ」と助産師さんには言われ、急遽、鉄剤の点滴と薬を服用したりもしました。
 
挙句に、ある日には、昨日まで元気に暴れてたお腹の子供が動いていない!!と青ざめ、お腹の中で死んでたらどうしようと病院に駆け込みました。(結果的に、眠ってただけみたいで問題なかった)
その出来事を通しては、ともかくもう、命さえ無事で生まれてくれればそれでいい、と祈るような気持ちにもなりました。
 
前置きが長くなりましたが、こんな毎日の中、私の中で大きく変えて学んだことが、2つありました。それらは、このように極端な状況だからこそ、変えられたことだったのかもしれません。
 

変えたこと1:自分で自分に満足に食べさせる

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まず1つ目は、食事を変えました。
ともかく食べられなくて、でも食べないと気持ちが悪いので、食事を根本から変えざるを得なかった。
 
スーパーの惣菜でもコンビニ弁当でも冷凍食品でもよかったのが、全部無理になって、母の普通の温かい家庭料理が、1番食べられました。
母が帰った後は家庭料理を自分でも再現できるように、まずともかく素材の調達だ、と有機食材の中心に週1の生協できちんと注文するようになりました。それまでは、外食や中食で食材を使い切って管理し切れないのと、注文してからすぐ届かないので面倒だと思っていたのですが、とりあえずすぐ調理できて美味しいと思える食材が、常に冷蔵庫にある状態を作りました。
それから、レシピを見て料理を考えたり作ったりするのが面倒なので、ちょうどヒットしていた有元葉子さんの『レシピを見ないで作れるようになりましょう。』のシリーズを読んで、普通で簡単だけど自分がおいしいと思って食べられるものを、短時間に作れるようになりました。(具体的な料理法については別記事に譲ります)
 

 
そうしたら、劇的に、生活が変わりました。以前も別に料理をしないわけではなかったのですが、やる気がなくて、まあなんか食べられればいいや、というなげやりなものだったのが、「今日妊婦の私も落ち着いて食べられるものを作らなければ」というモチベーションができ、母の料理というモデルケースを目指して、ともかく毎日普通におうちで食べられるようにしました。料理も習慣なので、毎日食材を見て、調理していればそれなりにもなるものです。
結果、自分で自分に満足できるように食べさせることができる、という能力は、改めて強力なスキルなのだなと感じました。
ちなみに、独身の女性と男性だと、女性の方が圧倒的に幸福度が高いという調査結果をどこかで見ましたが、それはおそらくこの「自分に食べさせられる能力」の有無によるものではないかと思います。
 
また、付随する効果として、息子にも同じものを食べさせるようになったので、圧倒的な偏食を少しずつマシにしていくことができました。やはり、健康的に食べる能力というものも、小さい頃から培われるものですから、このタイミングで変えることができて、本当によかったと思います。
あのままだったら息子は若年メタボにまっしぐらだったかもしれない。また、息子は気の向いた時には料理の手伝いもし、また野菜を食べさせるために栄養のことも教え、まだまだ好き嫌いはありますが、ともかく一口は食べる、というルールを守れるようになりました。いわゆる、食育です。
 

変えたこと2:得意な仕事だけする

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もう1つ変えたことは、仕事の内容です。休職をきっかけに大幅に仕事を減らしてもらったため、実際に周りのメンバーには相当迷惑をかけてしまいました。そしてその分、何とか他の人が不得意で自分には比較的簡単で役に立てることをしようと、貢献点を必死で探したのでした。
 
そのなかで見つけたのは、比較的細かい性格なのと、数字は得意なことから、マーケが使う予算全体の管理、費用着地予測と経営企画・経理とのすり合わせ、それから、マーケティング活動の成果の分析とマネジメントへの報告資料作成、それから、得意のマーケティングリサーチの設計・実査・分析と示唆のクリエイティブへの反映、会議の調整、キャンペーン直前で施策実行に必死なメンバーの間に落ちるこぼれ球を拾うこと、新しく入ったメンバーのサポート。チーム内のメンバーとメンバーの隙間を埋めるような仕事に徹することで、なんとか価値を探しました。
 
できるけど苦労する仕事と、自分には比較的楽にできて役に立ちやすい仕事なら、なるべく後者に寄せることを心がけることで、むしろ感謝されることが増えたような気もし(気を使ってくださっただけかもしれませんが)、高齢妊娠期のキャリアを何とか乗り切ったといえるのかもしれません。
 
(実際のところ、働きの悪い私を鬱陶しく思った人もきっといるだろうとは思いますが、何も言わず、日々ヘロヘロな中でなんとかチームにいさせてもらえて感謝しかありません。)
 
結果、入社当初から1年をかけて練ってきたメルペイローンチキャンペーンの成功を期末までしっかり最後まで見届けることができ、微力ながら貢献できたことは、私にとって大きな財産にもなりました。まだ世の中に浸透していない成長期のビジネスの、0→1の立ち上げのマーケティングという難易度の高い課題を、どう成功に導くのか、というのを体感できたことは、本当によかったです。
 

組織と個人の幸せな関係とは

この約半年を通じて、重い体を引きずりながら、組織で働くということは(前提として周囲の理解と温情があってのことですが)こうやって役割分担をして補い合うことなのだとも感じました。
 
また、キャリアには、できることが少ない若い時期には、何でもやってみてできることを増やしていくことも重要ですが、一方で、特に個人のライフステージ上、仕事が制限され拡大が難しい時期には、キャリアを絞り込んで強めていくこともまた、重要なのかもしれません。不得意なことを無理をして行ってパフォーマンスが出ないよりは、得意なことを周りに役に立つかたちで行う。実はそれこそが、個人が社会で働くときに考えるべきことなのかもしれません。
 
今の日本社会を見回したとき、人手不足はますます進んでいき、そうすると一昔前の24時間働けます、な専業主婦に支えられたモーレツサラリーマンの比率は下がっていきます。
乳幼児を子育て中の共働き夫婦は増えていきますし、家族の介護を担う人も増えていくでしょう。外国人労働者も高齢人材も増えていきます。
様々な事情を持つ人たちを活かしながら組織として最大のパフォーマンスをあげて運営していくには、人それぞれの個性や強みの中で組織にとって役立つ部分を活用し、チームとして運営していくことが必要になってくるのでしょう。
 
また、個人としてのキャリア形成としても、単純な労働時間だけを貢献量とはせず、働きの質を上げるために、個人の資質をよく見極めた働き方を探すことも大切なことなのかもしれません。
 
もちろんできれば、フルタイムで100%コミットする働き方ができればいいけれど(そうしたいときもそうしなければならないときもあるけれど)、一方でそうではない時期がくるかもしれず、そのときに仕事を辞めざるを得ず社会から完全に弾き出されてしまうのではなく、小さくとも貢献できるような柔軟な組織を作りたいものだなと、思いました。
そういう新しい時代の組織作りを実現してくださった、私の上司にも、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
 
ちなみに、今回のことで私自身はファイナンスに興味を持ち、産休育休中には会計の勉強をし、マーケティングファイナンスを掛け合わせたような専門性を身につけていけないかと模索しています。こうやって自分の適性をさらに探ることができたことにも感謝をしています。
 
今回の高齢妊娠に限らず、たとえば障がい児の子育てや、自身の病気、親の介護や看取り、パートナーとの離婚や死別、小学生以上の子供の不登校など、長い人生の中では業務に支障の出るような比較的大きなハンディを持つこともあるかもしれません。
その時に、キャリアを簡単には諦めず、継続する方法を模索することも考えていただきたいな、また、それを受け止められる柔らかい社会であってほしいなという願いを込めて、この記事を書きました。
 

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