“おかあさん”はたくさんある役割のうちの1つだよね。

あー、幸せだなぁと思う朝

f:id:mana-power:20180209092951j:plain

朝、子どもを保育園に連れて歩いているとき、ふと、「あー、幸せだなぁ」って思うことがあるんです。なんでだろなと思うと、“何もないとき”なんですね。


というのは、「ああーー!会議にギリギリ!!」みたいに焦っているわけでもなく、「ママ、だっこ!!」と息子がゴネているわけでもなく、雨が降って息子と自分の傘を必死に持っているわけでもなく、ただ、手をつないでポツポツ話しながら歩いている。
ついでに朝日がまぶしかったり、道端に花が咲いていたり、美しい落ち葉が見えたり、するとなおよし。

小さい手を握って、ただただ歩いている。心に不安も焦りもない。そういうことが幸せだなぁって。

何にもないだけで幸せを感じるっていうのは、それぐらい子連れの出勤中って必死だし、めちゃくちゃだし、イライラしているし、ってことなんですけど(笑)。

必死の働くママライフ

2歳ぐらいまでは、子どもは熱を出すことも多いし、いわゆるイヤイヤ期にもうともかく「保育園に行きたくない!!」とか「ごはん食べない!」「着替えない!」「歩かない!」みたいなことが多くて、保育園まで連れて行くのに、2、3時間かかることさえありました。

この必死な働くママライフをリアルに表現して、以前大いに共感を得た動画がコレ↓

サイボウズ ワークスタイルムービー「大丈夫」 - YouTube

 

子どもの体質・体力と性格によって、その濃さはいろいろだと思うんですが、人間の世界に生まれ落ちたばかりの新しい生き物である赤ん坊は、ここでの暮らしに慣れるまで色々と嫌なことも多いようで、毎日泣いたり怒ったりしています。

まあ、誰だって初めてのことはストレスがありますしね、人間1年生も、ママ1年生も大変ですよね。

働くママの葛藤

また別の話ですが、先日会社の同僚ママさんから、一旦仕事を辞めることにした、という話を聞きました。理由は、まだお子様が小さいこと。1歳半で復帰されたのですが、風邪をひいたりが本当に多くて、ちょっと今はやっていけないなと感じられたようです。
詳細を伺ったわけではないのですが、仕事が大好きな人だけに、その決断をするまでにどれだけ悩まれただろうと思うと胸が痛みます。だから、それがどんな決断であれ応援したいというのと、またいつか一緒にお仕事をしたいなと思いました。

私自身は、子どもの乳幼児期を、夫、夫と私の両親、保育園、病児保育のフローレンス、区の病後児保育などすべての助けをお借りしまくって、何とか乗り切りましたが、実際に活用できるサポートの種類と量は住んでいる場所や家族によって違うので、また子どもの性格・体質でも変わるので、家族の数だけ状況も違うんだと思います。

「あたしおかあさんだから」炎上に感じたこと

折しも、『あたしおかあさんだから』という歌の歌詞について炎上していますね。歌詞を書いたのぶみさんの『ママがおばけになっちゃった』という絵本は、絵本ながら泣かされてしまったぐらい好きだったので、今回のことはとても残念ですが、実際にこの歌詞を読むと、確かにそこはかとなくイラっとしてしまう人がいるのもわかる気もします。

一体何がこんなにイラっとさせるのかなぁ?とちょっと考えてみたのですが、やっぱり「あたしおかあさんだから」というフレーズが、母親という役割のステレオタイプな枠の中に、母親という役割を負う人を強制的に押し込めてしまう感じがするのが、イヤなのではないかと思いました。


おかあさんだからって、みんな同じ自己犠牲の献身的な母親とは限らないし、むしろあまりの自己犠牲は子どものためにもならない場合も多いし、母親本人が無自覚にそのステレオタイプに自分を押し込めたら、本当に苦しくなってしまうことも多い気がします。

人は、たくさんの役割を持ちます。1人の女性は、母親であり、妻であり、女性であり、働くプロであり、誰かの娘でもあり、誰かの友人でもあり。人はたくさんの人と関わって、その関係性の中での自分を生きます。

人は鏡のような平板なものではなくて、クリスタルのような多面体なんだと思うんです。どこから見るかで、見える姿は違う。

ある女性を、たった1つの「母親」という側面でのみ切り取ったら、それは苦しくなっちゃいますよ。でも、母親の役割を担う人は、母親として、子どもとしか生きていけない、なんてことないはずです。

 人間は生理的早産

もちろん、特に乳幼児を育てている時期には、母親は自分の大部分の時間と心を子どもに注ぐことが多いです。だって生まれたてですからね。人間は“生理的早産”といって、脳が大きいためあまり大きくなると産道を出られなくなってしまうため、他の動物よりもかなり早く、未熟な状態で生まれてきてしまいます。本当は2年ぐらいお腹の中にいたほうがいいんですよね。たぶん。でも結構早めに出てきちゃうので、かなり周りの手を必要とするわけです。

自由に自分を生きる

今回の炎上から私が感じたことは、人は多面的なものである、ということをもっと受け入れられたらいいのになーということでした。


お母さん、お父さん、というのは名前じゃないですよ。
みんな自分の名前を持ってます。そして自分自身の唯一の生き方を生きるのです。

人は、みんな自分の生き方を選んでいいんです。
唯一の役割に縛られる必要はありません。

複数の役割を使い分けていいんです。

いろんな考えの人がいるし、世代や時代の価値観というものがあるものですが、でも、大体過半数の人がこう思っている、っていうことと、自分が同じである必要なんてないんです。

自分の人生は、多数決で決めるものじゃないですよ。いろんなことを言う人が周りにいたとしても、「私の人生は私が選ぶ」それでいいんじゃないかなと思います。

そして、全員に自分全部を認められなくていいんです。できれば、自分が属する世界を複数持って、自分の部分部分で共感しあえる人があちこちにいればいいんじゃないかなと。

また、今ママの背中を見ている子どもも、またいつか母親・父親になります。そのときに思い出す自分の母親が「母親として、社会的に恥ずかしくないあるべき姿を生きる」姿だったら、またちょっとそれも苦しいんじゃないでしょうか。

 

親も子も、もっと自由になれたらいいなと思いました。